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宇治について


京都府内における宇治市の位置|宇治市の歴史と文化|宇治茶について


京都府内における宇治市の位置

JR京都駅からJR奈良線快速で約15分。茶どころとして名高い宇治市は、京都府南部に位置し、市の中央部を宇治川が流れる緑豊かな美しい町です。宇治市には世界文化遺産に指定されている「平等院鳳凰堂」をはじめ、数々の名所があり、『万葉集』『源氏物語・宇治十帖』などの舞台としても知られいます。このように宇治市は美しい文化観光都市として多くの人々に愛されています。
 宇治市は昭和26年3月に旧宇治郡南半の東宇治町と久世郡東半の宇治町、槇島村、小倉村、大久保村が合併して誕生しました。人口は186,692 人(平成8年12月1日現在)、市域面積は67.29 平方キロ、市長舎所在地は宇治市宇治琵琶にあります。


宇治市の歴史と文化

宇治は、平安時代に摂政政治の成立と藤原氏の台頭により、この風光明媚な宇治の地は藤原氏の荘園、別業地となりました。その遺構のひとつである「平等院鳳凰堂」(1052年建立)は、藤原時代を代表する建築物として往時の華麗なを現在にとどめています。houou.gif
 また、国文学の勃興した時代には『源氏物語・宇治十帖』をはじめ、宇治川に取材した数々の文学、詩歌も生まれました。鎌倉時代に入ると栂尾高山寺の明恵和尚が宇治へ茶を伝え、室町時代以降、宇治において重要な役割を果たすこととなる茶業は宇治茶の名とともに繁栄し、その後、信長や秀吉の庇護のもとさらに名声を上げ、江戸時代初期には名刹・興聖寺、黄檗山萬福寺の建立とともに宇治は「茶道」や「禅」に象徴される日本文化の発展に貢献しました。
 江戸時代には将軍家が用いる宇治茶を運ぶため、幕府派遣の役人が茶壺を仕立てて往還する「お茶壺道中」が制度化され、沿道の住民は大名行列に接すると同様にこれを歓迎し、宇治の町はたいへんにぎわいました。維新後は、明治元年に京都府が置かれ、山城の国は8つの郡に分けられ、幾度かの行政区画の変遷を経て現在の宇治市が誕生しました。


宇治茶について


江戸期後半に煎茶、玉露が作られるまでは宇治茶といえば一般に碾茶(抹茶)のことをさしましたが、そのすぐれた技術や製法は、他の産地の茶業にも大きな影響を与えています。宇治茶の起源は13世紀前半にさかのぼり、栂尾高山寺の明恵和尚が馬蹄の跡に茶の種を播くことを五ヶ庄の里人に教えたのがはじまりだと伝えられています。
 南北朝期以降、足利将軍家の保護を得てから急速に発展し、茶の湯の隆盛とともに宇治茶は日本の茶の代名詞としての地位を得ました。この発展を支えたのは、江戸幕府の保護も受けた上林(かんばやし)家を筆頭とする多くの宇治の茶師たちでした。宇治茶師とは、江戸期における宇治の製茶業者のことで、朝廷・将軍家・諸大名の御用茶に携わった特定の家をさします。
 また、江戸時代には将軍家が用いる宇治茶を運ぶため、往路は東海道、帰路は中仙道・甲州街道を通り、17世紀後半から18世紀初頭に「お茶壺道中」はピ−クを迎えました。将軍が飲み、徳川家祖廟に献じる茶でもあったため道中行列そのものが神聖視され、沿道の住民は畏怖して一行の通過を見守り、♪茶壺に追われてトッピンシャン、抜けたらドンドコショ♪という童謡も生まれました。
 また、宇治には茶の歴史とともに誕生した名所がいくつか残っており、足利義満が宇治郷に開かせたと伝えられる名茶園・七園のひとつ「奥ノ山茶園」(宇治市宇治・東方台地上)と、茶の湯に用いられた宇治七名水のひとつ「桐原水」(宇治上神社境内)が現存しています。
 宇治のメインイベント「宇治茶祭り」は毎年10月第一日曜日に開催されます。この祭りは、栄西、明恵、千利休他、茶業の功労者を讚え、茶樹を供養するため、秀吉が毎日宇治橋守の通円に水を汲ませた故事にちなみ、興聖寺で茶事が催されます。新茶の茶壺口切り、表千家・裏千家(一年交替)の献茶、法要の後、宇治川では屋形船上の煎茶席が催され、午後には宇治神社御族所から時代行列が出発します。宇治茶の文化を伝える華やかな「宇治茶祭り」は多くの人々でにぎわいます。